2023年6月の法話
[6月の法語] |
信(しん)は 如来(にょらい)の生命(せいめい)なり |
Entrusting that arises within me is the salvific working, that is, the life of the Tathagata. |
小山法城(こやまほうじょう) |
[法話]
宗教で示される「信」は、一般的に私たちの持つ信仰心と考えることができます。しかし、ここではその「信」が「如来の生命」と示されています。私の「信」が「阿弥陀如来の生命」であるとは、どういうことなのでしょうか。
この言葉は、浄土真宗を開かれた親鸞聖人が示された「他力の信心」を明らかにしたものです。「他力」とは、「阿弥陀如来の本願にもとづく救いの力」という意味で、「本願」とは、阿弥陀如来の慈悲の願いです。
浄土真宗の信心とは、「阿弥陀如来の側に私を信じさせるだけの力がある」ことによって、私が「信じずにはいられない」ようになった心です。阿弥陀如来のはたらきのおかげで生じた信ですので、これを「他力の信心」といいます。そこには、決して捨てられることのないという、あたたかな安心(あんじん)が伴っています。
軒先の下にある石が雨水によって長い期間をかけて穿(うが)たれていく(=穴を空けられる)ように、阿弥陀如来が私たちを救おうとされる活動は、ついに私たちの心に到達してくださいます。私たちの立場からいえば、阿弥陀如来の御心(みこころ)を真剣にお聴聞(ちょうもん)することを通して、阿弥陀如来に対する、頑(かたく)なな疑いの殻(から)が破られていくのです。それは、たとえば学校の先生や親の真心が、ついに子どもの心に届くすがたに似ているといえるでしょう。
信心とは阿弥陀如来のはたらきが、そのまま私たちの心に届いたすがたであり、阿弥陀如来が私たちの心を場として躍動(やくどう)しているすがただといえます。それを「信は如来の生命なり」と表現されているのです。
『月々のことば』(本願寺出版社刊)より抜粋
※ホームページ用に体裁を変更しております。
※本文の著作権は作者本人に属しております。
◎先月は雨天の中、当寺の春の法要(永代経)ご参詣ありがとうございました。今回は4年ぶりでしたがご寺院様に出勤していただき私を含め6名で勤めさせていただきました。久しぶりで戸惑うこともありましたが無事にお勤めできました。いろんなことが少しずつ以前の状態に戻っていけたらと願います。ありがとうございました。
合掌