2020年2月の法話
[2月の法語] 生のみが 我らにあらず 死もまた 我らなり It is not life alone that makes up what we are. 清沢 満之(きよざわまんし) |
[法話]
薬剤師として病院に勤めるようになって、この2月で5年になる。医師に処方された薬を、病棟(びょうとう)の患者さんに届けて説明するのが大樹の仕事だ。いつものように薬を届けていると、光明さんという60歳ぐらいの患者さんがニコニコしながら話しかけてきた。
「先生いつも薬をありがとう。先生の仕事は〝応病与薬(おうびょうよやく=病に応じて薬を調合し患者に与えること。人の素質・能力に応じて仏がさまざまな教法を説くことを喩(たと)えたもの)〟というとても大切なお仕事やね。なんまんだぶ。あ、なんまんだぶ、と言うのは私の口癖(くちぐせ)やけん気にせんでくださいね(=口癖だから気にしないでくださいね)」
「ありがとうございます。そうおっしゃってくださるとうれしいです。私が励まさなきゃいけないのに、逆に励(はげ)まされちゃったなあ」
「患者はあんまり励まさんほうがよか(=よい)ときもありますよ。私みたいにがんの末期で励まされても、つらくなるだけですけん」
大樹はドキッとした。
「私、いつも患者さんを安心させようと、励ましてるかもしれません」
「頑張りとうても(=頑張りたくても)、もう頑張れんけんなあ(=頑張れないからなあ)」
「どう声をかければいいんだろう?」
「もう頑張らんでもよかですよ、と言われたほうが安心かなあ」
「それはちょっと言いにくいですね」
「そうねえ。ただひとつ言えるのは、みんな病気で死ぬんやない、生まれてきたから死なないけん(=死ななければならない)のですよ。私のところに生だけがあるんやない。死も同時にある。病気が縁で死ぬときもある、事故が縁で死ぬときもある。その縁が違うだけ。それが真実。頑張ったらまだ生きられるとか、死に際に自分に嘘ついて意味あるとね(=意味があるのですか)?」
「なるほど、でもそれってさとりの境地(きょうち)っぽくないですか、心底そう思えるのって難しそう。死が同時にあるって言われても、私にはなにかむなしく聞こえます」
「死んで終わりならむなしいやろうね」
「終わりじゃないんですか?」
「すべての生きとし生けるものをば、必ず救うと誓われとる阿弥陀さまという仏さまがおってな。その仏さまの願いを聞くと、私はただ死ぬんじゃなか。阿弥陀さまの国、お浄土に生まれさせてもらういのちを、今生きとることになる。お浄土に生まれたら、先に往(い)った親や子や孫とも再び会うことができる。それだけじゃなか。再びこの娑婆(しゃば=人間が現実に住んでいるこの世界)に帰ってきて、まず自分の縁のあったものを自在に救う仏とならせてもらうとよ。来たるべき死を嘆(なげ)くやなく(=嘆くのではなく)、仏と成らせていただくことを感謝させていただく毎日が今やけん(=今だから)、むなしいことなんかなかとばい(=ないのです)。なんまんだぶ」
「今の私は死んでいくいのちではなく、生まれていくいのちかあ。その捉(とら)え方はいいなあ。でも阿弥陀さまにまかせるのは難しそうですね」
「さっきはおまかせしとるて言うたけど、本当は阿弥陀さまのほうから『たのむから私に救わせてくれ』とお願いされとるんです。だから、もう阿弥陀さまの仰(おお)せに従うだけたい。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
「なんまんだぶ、ってそういう意味なんですか。死を嫌いむなしく生きるだけではない、生と死をひとつのこととして、毎日感謝しながら生きる別の世界が開けているんですね。またお話を聞かせてください」
「こんな話ならいつでもよろこんで。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
大樹はいつも「なんまんだぶ」と念仏を称(とな)えている田舎の祖父を思い出していた。そして、いつの間にか笑顔になっている自分にも驚いた。応病与薬とはこういうことなのか。光明さんの声をなぞるように、心の中で何度も「なんまんだぶ」と繰り返してみた。
荻 隆宣(おぎりゅうせん)
浄土真宗本願寺派布教使、仏教青年連盟指導講師
グラフィックデザイナー、山口県長門市浄土寺住職。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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