松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2019年7月の法話

[7月の法語]

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり

The tradition of the true Pure Land teaching speaks of birth through the Nembutsu.

『一念多念文意』

[法話]

車を運転していると、信号に引っかかって、停車しなければならないときがあります。もちろん交通ルールを厳守するのは当たり前です。

 

でも、前の車までは青信号で、自分のときに赤信号に変わったりすると、なんだか負けたような気がするのです。決して勝負しているわけではありませんが、なんで私の時に限って...と思うと、負けた気がするのです(私だけでしょうか?)。

 

そのなかでも一番、負けたような気がするのが、押しボタン式信号です。押しボタン式信号が赤になって停められたのに、誰も渡らないときがあります。

 「もう。誰や。押しボタン押したんは!どうしてここで止まらなアカンねん!完全に負けたァ」などと思うのです。

すみません。決して運転は勝負ではありません。安全運転に心がけなければなりませんね。でも私の偽(いつわ)らざる心境なんです。

 

私の人生にも、思いがけずストップがかかることがありました。少し体調が悪くなって寝込んだとき、大けがをして入院したとき、家族の死別に涙したとき、大小さまざまですが、日常の毎日の生活をいままで通りに送ることができなくなったことがあります。

 

その度に、「あ~あ」とため息をついたり、「こんな思いをいだくのかぁ」と深く思い煩(わずら)ったことがあります。でも、また日常の生活に戻ると、その思いを忘れています。

 

これからの人生にも、思いもよらなかったストップがかかることがあるんでしょうね。その最も大きなことが、私の人生が完全にストップさせられる、「私のいのちの終わり」の赤信号でしょうね。

 

その時に、「なんで私が...」「どうしてここで...」と悔(くや)しい思いをして、そして「負けたぁ!」と思うほかはないのでしょうか。

 

阿弥陀(あみだ)さまは、この私をお浄土(じょうど)に往(ゆ)き生まれさせ、この上ないさとりを開かせ、仏にさせると誓われました。そのお誓いのとおり、すべての用意を成しとげた「南無阿弥陀仏」となり、私に至り届いてくださいました。「南無阿弥陀仏」一つのお救いを聞きよろこぶ私たちは、お浄土に往き生まれていくいのちとなりました。

 

死は必然でありながら、自分の死としては未経験なことです。未経験なことがやってくると思うと、いろいろな不安がつきまといます。その意味では生きていることは恐れおののいて生きていくしかないのでしょう。

 

死を恐れおののいて生きていくしかない私に、阿弥陀さまは「必ずお浄土に生まれさせる」と誓いをたてられました。その誓いの通り救ってくださる「南無阿弥陀仏」のお救いをお聞かせいただくところには、死んで負けて終わるとしか思えなかったいのちから、「死ぬ」のではないお浄土に往き「生まれ」ていくいのちとならせていただいたのです。

 

「南無阿弥陀仏」一つのお救いをいただく私たちは、仏さまと成るいのちを、いま生きることができているのです。

これが浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。

葛野 洋明(かどのひろあき)

龍谷大学(大学院)実践真宗学研究科教授。本願寺派布教使。

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

[註]:『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』

 康元2年(1257)親鸞聖人85歳時の著。信のこもった念仏であれば一度だけでも称(とな)えれば浄土に往生できるとする主張(一念往生)と、数多く念仏を称える行を積まなければならないとする主張(多念往生)との論争が法然聖人門下におこり、親鸞聖人の門下にも及んだ。親鸞聖人は、一念・多念のどちらにこだわるのも、自力をたのむ心を捨てて阿弥陀如来に絶対的に帰依するという信心にそぐわないものとし、「浄土真宗のならいには念仏往生ともうすなり。またく一念往生・多念往生ともうすことなし(浄土の真実の教えでは、念仏往生というのである。決して一念往生ということも、多念往生ということもない)」と戒められた。

houwa201907