松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2019年6月の法話

[6月の法語]

無碍(むげ)の光明 信心の人を つねにてらしたもう

Unhindered light constantly illumines the person of the entrusting heart.

『尊号真像銘文』

[法話]

「正信偈(しょうしんげ)」の中に、

 大悲無倦(だいひむけん)常照我(じょうしょうが)(大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたもう=阿弥陀如来の大いなる慈悲の光明は飽(あ)くことなく常に照らしていてくださる)

という一節があります。これは、源信僧都(げんしんそうず=942~1017 浄土真宗七高僧の第六祖、恵心僧都(えしんそうず)と尊称される)によって著(あらわ)された『往生要集(おうじょうようしゅう)』の次の言葉をもとにして作られました。

 

大悲無倦(だいひむけん)常照我身(じょうしょうがしん)(大悲倦きことなくして、常に我が身を照らしたもう)

この「大悲無倦常照我身」の「常照我身」について親鸞聖人(しんらんしょうにん)が解説されたのが、「無碍(むげ)の光明、信心の人をつねにてらしたもう(=阿弥陀如来の何ものにもさまたげられることのない光明は、 信心の人を常にお照らしになるというのである)」という法語です。

 

「常照我身」の「常」とは、いつでも、どこでも、という意味です。さらに言うならば、だれにでも、ということでしょう。ですから、「我身」とは、源信僧都だけではなく、私たち一人ひとりに関わる言葉です。

 

この法語の中で注意したいのが、「我身」を「信心の人」と解説されていることです。親鸞聖人は、なぜ「信心の人」と一見限定するような言い方をされるのでしょうか。

 

そのことを考えた時、親になって初めて気づかされたことを思い出しました。

 

私が父親になって約十年。いつの間にか三人の子の親となりました。子どもたちにとって私がどのような存在なのか、また、父親としての役割をきちんと果たせているのかは正直わかりません。しかし、母親である妻が子どもたちと関わる姿をとおして、親とは何なのかを教えられることは、しばしばあります。

 

妻の生活は、朝起きてから夜寝るまで、すべてが子ども中心で動いています。食事のこと、洋服のこと、幼稚園・学校のこと、また、休みの日の予定など...。私は妻の姿をとおして、初めて、いつも子どものことを考えて生活しているのが親であることに気づかされたのです。と同時に、私自身もそのようにして両親に育てられたのではないか、と考えるようになりました。

 

では、両親の思いや願いに感謝しつつ生活してきたでしょうか。これまでのことを振り返ってみると、「親の心子知らず」という言葉があるように、両親が考えていることや、かけられる言葉がただただ煩(わずら)わしく、自分勝手な行動ばかりして歩んできたように思います。当時の私は、両親の思いや願いを本当の意味で感じ取ることはできませんでした。

それでは、いつ感じ取ることができるのでしょうか。それは、自分勝手な行動をしていても、いつも見守ってくれていることに気づいた時ではないでしょうか。気づけば、自然と感謝の気持ちが湧いてくるでしょう。

 

無碍の光明は、手を合わせる人も、そうでない人も、えらぶことなく常に照らしているに違いありません。しかし、手を合わさない人にとって、無碍の光明はどこにもありません。手を合わせて、南無阿弥陀仏と念仏申す人にこそ、「つねにてらしたもう」という実感があるのです。

 

そういう意味で、親鸞聖人が「我身」を「信心の人」と解説されるのは、無碍の光明が、他でもない、念仏申す私自身を常に照らしている、という主体的な受けとめをあらわすためではないでしょうか。

青木 玲(あおき れい)

1980年生まれ。九州大谷短期大学講師。久留米教区覺圓寺衆徒。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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[註]『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』

 親鸞聖人の著書。礼拝(らいはい)の対象である名号本尊(「南無阿弥陀仏」等)や祖師方の肖像画には、上部もしくは下部に聖典の言葉を讃文として記入する場合が多くある。これを銘文(めいもん)という。こうした讃文として引用される法語について解説されたもの。

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