2019年3月の法話
[3月の法語] われらは 善人にもあらず 賢人にもあらず We are not good persons, nor are we persons of wisdom. 『唯信鈔文意』 |
[法話]
電車に乗ると、座席が空いていて座ることができました。「あ~ぁ、座れてよかった」と思っていると、停まる駅ごとに、だんだんと混んできました。私よりお年を召(め)
された方が、私の前にお立ちになりました。私は、わざとらしくではなく、黙(だま)って席を立って、席をお譲(ゆず)りしました。その方は「ありがとう」と一言おっしゃってくださって、お座りになりました。そのまま、目の前に突っ立っていると、ずーっと御礼を言わせることになってしまう、そう思って、少し場所を移動しました。同じ車両の扉付近へと移動して立って、こんなことを考えていました。
「きっと、この車両に乗っている人はみんな、私の席を譲った様子をご覧になって、あぁ、なんてスマートな紳士なんだろう!と思って見ているんだろうなぁ」
などと心の中に、わくわくするようなくすぐったいような思いを抱いていました。
これってどうなんでしょう?もちろん他者に席を譲ることは、すばらしいことですよね。だけどその席を譲った私の心はどうでしょう?心の中では「オレってどう?なかなかやるでしょう!」などと思っているのです。
私たちは、自分がなし得(え)たことを、認めてもらいたい、褒(ほ)めてもらいたいという思いが心の中に渦巻(うずま)いています。他の人にすばらしいことをしてあげたと思っていても、自分の心の中を考えると、本当にすばらしいことをなし得たなどと言うことは、到底できそうにありません。
阿弥陀(あみだ)さまはそのような、私のもともと持っている本性(ほんしょう)を見抜(みぬ)いてくださって、「そんなあなたをこそ救おう」とおっしゃいました。
このお救いをいただいた上には、善いことをした、すばらしいことをなし得たと思っていても、「でも、本当の意味では最善じゃあないんだよな。究極的な意味においては、これで十分ではないんだよな」と、そのことを知らされています。
するとそこには、「これじゃあ申し訳ない、もう少し...、もうちょっとだけ...、せめて...」と、さらに努(つと)め励(はげ)んでいくモチベーション(動機)を持たせていただくことになります。
阿弥陀さまのお救いには、私の努力は一切不要です。
でもそのお救いをいただいた私たちは、救われた上には、「せめて...」「もう少し...」と努め励んでいこうとする心をいただくのです。
私の持っているもともとの心は、自慢するのが好きで、しんどいことは怠(おこた)りがちな心です。こんな私の心のままではなく、自ら進んでおこなおうとする「たしなむ心」もいただくのです。
これが浄土真宗・阿弥陀さまのお救いです。
葛野 洋明(かどのひろあき)
龍谷大学(大学院)実践真宗学研究科教授。本願寺派布教使。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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◎今月はお彼岸です。3月21日が春分の日(彼岸の中日)となり、この日をはさんだ7日間(3月18日~24日)がお彼岸です。ではお彼岸とはどんな日でしょうか。「彼岸」とは読んで字の如く、「彼の岸」、つまり「向こう側の岸」のことです。「向こう側の岸」とは「(西方極楽)浄土、阿弥陀如来の仏国土」のことで、「迷いと苦しみ、煩悩のない世界」です。こちら側は「此岸(しがん)」といい、「迷いの世界」とされています。「彼岸」という言葉の原語は、昔のインドの言葉、「パーラミター」の漢訳で、意味は「到彼岸(とうひがん)」。すなわち「(此岸から)彼岸に到る」です。「迷いの世界」から「迷いのない世界(浄土)」へと渡ること。仏の国への往生を願うことです。彼岸の期間を仏教週間ということもあります。彼岸は仏法に触れるまたとない機会です。ご先祖を偲び、縁として静かに手を合わせお念仏申しましょう。 合掌