松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

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今月の法話

2018年9月の法話

[9月の法語]

まことの信心の人をば 諸仏とひとしと もうすなり

A person of true shinjin is said to be equal to buddhas.

「御消息集(善性本)」『真宗聖典』五八八頁

[法話]

このお言葉は、親鸞聖人が門弟からの問いかけに返信されたお手紙の一節です。「〈信心をえた人は如来と等しい〉といわれる所以(ゆえん=理由。わけ。いわれ)を、詳しく教えて下さい」という質問に対して、聖人は「阿弥陀如来の本願を信ずる心(=信心)が定まるとき、私たちは摂取不捨(せっしゅふしゃ=阿弥陀如来が慈悲の光明で、すべての衆生を受け入れて救いとり捨てないこと)の利益(りやく)に恵まれます。この心が定まることを、十方の諸仏はよろこばれ、諸仏のお心と等しいとお讃(ほ)めになります。だからこそ、〈真実の信心の人を諸仏と等しい〉と申し上げるのです」とお答えになります。

 

それでは、「まことの信心をえた人は、諸仏や如来と等しい」とはいったいどういう意味でしょうか。そもそも「信心」とは何でしょうか。念仏詩人の竹部勝之進さんに、「仏様から頂いた眼」と題する詩があります。

 

仏様から戴いた眼

その眼はわが身の見える眼

ああ  かたじけない かたじけない

(法藏館発行『詩集 まるはだか』八二頁』)

 

ここに、「まことの信心」とは仏さまの眼を頂戴することであり、それは私自身のありのままの姿を知らされることである、と詠(うた)われています。私たちは煩悩を消し去って仏となるのではありません。仏眼(仏智)を賜(たまわ)ることによって、わが身の分限(ぶんげん=身のほど。分際)を知り、自分を偽(いつわ)ったり飾ったりすることなく、愚かな凡夫(ぼんぶ=煩悩に束縛(そくばく)されて迷っている人)の身のままに生きていくことができるのです。そのありさまを、「諸仏と等しい」と教えてくださっているのではないでしょうか。

 

親鸞聖人のお返事は、冒頭のお言葉に続いて次のように述べられています。

 

「十方の諸仏は、まことの信心の人を、この世においてお護りになります。ですから『阿弥陀経』には、無数の諸仏が信心の行者を護念(ごねん=仏・菩薩・天などが行者を護ってくれること)すると説かれているのです。これはお浄土に往生してからの話ではありません。この娑婆(しゃば=苦しみが多く、忍耐すべき世界の意。人間が現実に住んでいるこの世界)世界において護ってくださるのです」

 

信心の行者に恵まれる諸仏護念の利益、それはこの苦悩の現実のただ中に成就(じょうじゅ)することが明確に示されています。ふたたび竹部さんの詩に尋ねてみたいと思います。

 

われいまここにあり

     われいまここにありて

     このまま

     このまま

     このままで宝の山にいるごとし

(「このまま」前掲書九八頁)

 

「信をうる」とか「諸仏と等しい」というと、娑婆での悩み事がなくなったり、苦しみが消え失せたりすることのように思いますが、けっしてそうではありません。阿弥陀さまの教えによって、いま現在の自分に不平や不足を感ずることなく、このままでよい、このままで尊い、という身の事実に気づかされることでしょう。

 

浄土真宗の信心とは、「煩悩のこの身がありがたい、かたじけない」と深く頷(うなず)かしめられることです。そして、そのよろこびの世界に目覚めた人のことを、親鸞聖人は「まことの信心の人をば 諸仏とひとしともうすなり」と教示されるのであります。

伊東 恵深(いとう えしん)

1977年生まれ。同朋大学准教授。三重教区西弘寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

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