松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

〒553-0003 大阪市福島区福島3-4-4
TEL 06-6451-7966 / FAX 06-6458-9959

2022年1月アーカイブ

2022年1月の法話

[1月の法語]

きょうもまた 光り輝くみ仏(ほとけ)のお顔おがみて うれしなつかし

How happy and heartwarming it is for me to gaze up at Amida's face again today.

稲垣瑞劔(いながきずいけん)

[法話]

一月の法語は、浄土真宗本願寺派の僧侶である稲垣瑞劔師(1885-1981)のお言葉、「大信海」と題する文章にある一句です。今あらためて、その文章の冒頭をいただき直したく思います。

 

南無阿弥陀仏
私を離れた如来なし
如来を離れた私なし
(法雷叢書3『願力往生』法雷会ほか)

 

  私たちは日ごろから、どのような思いで、仏さまに手を合わせているでしょうか。どのような心持ちで仏さまの尊前に座り、お念仏を申しているでしょうか。そして、光り輝く仏さまの尊顔に、日々出あえているのでしょうか。

 

  南無阿弥陀仏とは、人間の言葉ではなく、仏さまから与えられた名のりです。その名のりは、私たちの苦しみや悩みのもとを破る不可思議なる智慧の光であり、無量なるいのちの願いです。

 

 曽我量深(そがりょうじん 1875~1971 真宗大谷派僧侶、仏教思想家)先生は、「念仏は原始人の叫び也(なり)」とおっしゃられました。私たち人間は、叫び声を秘めて生きています。ところが、いのちの叫びともいうべきその声は、私たちの身の中(うち)の深い深い奥底の叫び声であるために、自分の思いや努力によって気づくことはできません。自分が何のために生まれてきたのか。本当は何を求め、何を願っているのか。どういう自分として生き、どういう自分として命を終えていきたいのかが分からない、それを「無明(むみょう=邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知。最も根本的な煩悩)の闇」というのです。

 

  先日、ある聞法(もんぽう=仏の教えを聴聞すること)の集(つど)いで、一人の青年と出あいました。将来は真宗大谷派の僧侶として生きていこうとするその青年は、自分のあり方に不安を抱(かか)えておりました。その時、その青年の目に、ある先輩僧侶の姿が留まりました。それは、ご本尊を前にして丁寧に合掌しお念仏を申される姿、出あわれる一人ひとりに対して丁寧に頭を下げられる、真摯(しんし=まじめで熱心なこと。また、そのさま)で温かいお姿でした。そこで青年はその方に、どのような思いでそうされているのかを尋ねたそうです。するとその方は、「私ももう長くないんでね。若い皆さん方に託(たく)したいんですよ。そういう私にできることは、この私がご本尊の前でお念仏を申すことしかないんでね」と言われたそうです。その言葉を聞いた青年は、ご本尊の前に進み出て座り直し、何度もお念仏をされました。そして私に、真剣な眼差(まなざ)しで言うのです。「生まれて初めてです。お念仏をしたくなったのは...」と。その言葉は、その青年が、これまでずっと出あいたいと願ってきたこと、求めてきたことにようやく出あうことができた喜びとして、私の身に響き届きました。

 

 真実の教え、すなわち本願は、私たち人間の叫び声に呼応(こおう=一方が呼びかけ、または話しかけ、相手がそれに答えること)して説かれました。この私一人(いちにん)の叫び声を離れて仏さまはおりません。また私たちは、仏さまからの願いを離れては、自分の心の奥底にある最も盛んな要求に、気づくことはできないのでしょう。

 

 迷い、疑い、叫び続ける私たちは、今日(きょう)もまた、南無阿弥陀仏という仏さまに、信じられ、敬(うやま)われ、育てられ続けます。南無阿弥陀仏は、「もとのいのちに帰(き)せよ」と私一人を招き喚(よ)ぶ、嬉(うれ)しく、そして懐かしい、光り輝く仏さまなのです。

 

仁禮 秀嗣(にれい しゅうじ)

1969年生まれ。北海道教区圓照寺住職。

 

東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

今年の法話(2022年)

[今年の法語]

念仏はまことなき人生のまことを見せしむる光

The nenbutsu is the light which shows us the truth of our untrue lives.

正信 含英

[法話]

今も奉公(ほうこう=他人の家に雇われて、その家事・家業に従事すること)という勤め方があるのを、初めて知りました。

  先日テレビのBS放送で、大阪船場のドキュメントがあり、船場にあるお茶道具屋さんに勤める青年が、映されていました。給料はなし。小遣い程度の報酬(ほうしゅう)で、店の仕事は何でもこなします。草引きや庭掃除、トイレ掃除に接待、もろもろの仕事すべてをこなすのです。

 むろん道具のことも学びます。展示会場で、道具のどの面を正面にするか、店員たちと議論している場面もありました。

 

  一昔前は将棋の世界でも、弟子が住み込みで働いていました。しかし、直接将棋を教えてもらうことはありません。買い物から何から、用事は何でもこなします。棋力(きりょく=囲碁や将棋の腕前)は自分で磨(みが)くのです。頭角(とうかく)をあらわして(=才能・技量などが、周囲の人よりも一段とすぐれて)、プロへ進む道が見えてくればよいのですが、そうでない場合、黙って消えていくほかありません。

 宮大工さんなどの世界も、10代のころはおそらく無給で技を習うのだと思います。法隆寺の宮大工として知られる西岡常一さんの本で読んだことがあります。お師匠さんを手伝いながら、その技を「盗む」のだそうです。かんなの研(と)ぎ方や調整など、口で教えてもらってもわかりません。お師匠さんの技を見て、体で覚えます。家を建てる時、材料の木材は、どこにどれを使ってもいいのではないそうです。1本1本、育った条件が違います。日当たり、方角、それらの癖(くせ)を見抜き、一番ふさわしい場所を探すといいます。これは言葉を超えた世界です。そして最も厳しい教育の姿でもあります。

 

 宗教の体験や経験は、読書や法話を聞いている時とは限りません。木材が1本1本異なるように、私たちは、誰に代わってもらうこともできない人生を歩んでいます。大工さんが言葉では伝えられない師匠の技を「盗む」ように、自分がお念仏の味を「盗む(味わう)」ほかないでしょう。

 

  船場に勤める青年の実家も、お茶の道具屋さんだそうです。目利(めき)き(=器物・刀剣・書画などの真偽・良否について鑑定すること。また、その能力があることや、その能力を備えた人)を育てるためだけでなく、商人の姿勢を学ばせるため、父親が奉公を勧めたといいます。報酬や給料目当てなら、そのような勤め方はできないでしょう。

 画面に映る青年は、とてもいい顔をしていました。

 

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

 

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載

◎ホームページ用に体裁を変更しております。
◎本文の著作権は作者本人に属しております。

 

◎あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。今年の法語カレンダーのテーマは昨年に続き「宗祖親鸞聖人に遇う」です。親鸞聖人の教えにふれた先達のお言葉を通して、あらためて宗祖に出遇っていただきたいという願いから法語が選定されています。挿絵には、俳優としても活躍される榎木孝明氏の水彩画が掲載されています。明年2023(令和5)年には、親鸞聖人のご誕生から850年という記念すべき節目を迎えます。多くの人にとって、お念仏申す日々を歩んでいく機縁となることを願っています。
 昨年、一昨年とコロナに振り回されています。変異株の発生(オミクロン株)もあってなかなか収束に至りません。感染対策をおろそかにせず一日一日を大切に過ごしたいと思います。

合掌

hougo2021