松樹山、西善寺。大阪府大阪市福島区、真宗興正派のお寺です。

〒553-0003 大阪市福島区福島3-4-4
TEL 06-6451-7966 / FAX 06-6458-9959

お寺の歴史

お寺の歴史

西善寺の沿革

 当山は、往古文治の頃(1185~1189)多田源氏の末裔、越智伊豫守、源義継が多年の戦乱にいたく世の無常を悟り当地に来たり、帰農して太良兵衛と称し土地の開墾に勤め、傍ら一宇の草庵を結び、源信僧都作「阿弥陀三尊」の画像をまつり、空閑と号して日夜念仏に親しんで一生を送った。

 この由来によって古来、福島産(うぶ)寺の呼び名があり、その後、明応年間(1492~1500)に本願寺第八世蓮如上人(1415~1499)が大坂石山本願寺において真宗念仏弘興の砌(みぎり)、当時の住僧の道空は深く上人に帰依し、爾来、歴代真宗念仏の道場として護持し現在に至る。

 その間、本願寺第十一世顕如上人(1543~1592)が石山本願寺において織田信長の法難の節、当時の住僧の浄空は法城を護るため門信徒を引具して偉功をたて(十七人殉死)、上人より感状を賜る。

 尚、徳川時代には本願寺御座船「不退丸」の運漕と管理に当寺と門信徒が奉仕した。明治9年(1876)に西本願寺より別派独立した真宗興正派に属した。

天下茶屋の仇討

 宇喜多(浮田)秀家の家老に林玄蕃という人がいた。慶長5年(1600)9月2日、家中の当麻三郎右衛門と些細なことから口論となり、その夜城中からの帰途、三郎右衛門により闇討ちにあってしまった。三郎右衛門はその足で逐電し、林家はとりつぶしとなったため玄蕃の三子、重次郎と源三郎の兄弟は三郎右衛門の後を追い仇討ちの旅に出た。やがて二人は目指す相手が伊藤将監と変名して大野治長の家来になっていることをつきとめ、仇討ちの名乗りをあげたが、兄の重次郎は折悪しく重病に罹っており、福島天神の森で返り討ちとなる。残された弟、源三郎は涙をのんでここを去り、幾多の苦労の末、慶長14年(1609)3月3日、天下茶屋で晴れて父と兄の仇を討った。

 これが「天下茶屋の仇討」の実説だが、後年、奈河亀輔と並木十輔の合作で歌舞伎(『敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがちゃやむら)』)になったとき、さらにいろいろの脚色が行われた。いわゆる三郎右衛門が玄蕃を殺したとき、貫行の筆になるという家宝の色紙を奪い、さらに玄蕃には重次郎、源三郎の兄弟の外に染の井、葉未の姉妹があり、染の井はこの色紙を買い戻すために京の祗園へ身を沈める。やがて4人は辛苦の末、仇の所在を確かめる。ここでさらに父の元の家来、安達元右衛門なる悪役が登場、仇の三郎右衛門はこの元右衛門が酒好きなところへ目をつけ、酒を飲ませて寝返りを勧め、折から重病で苦しむ重次郎を討つ手引きをさせる。このため重次郎は返り討ちに遭うが、残された3人はお互いの悲運を嘆きながらも、忠臣、鵤(いかるが)幸右衛門の助力を得て、天下茶屋で見事仇の三郎右衛門と裏切った元右衛門を討つという筋書きになっている。

 この芝居は大阪は藤川座で天明元年(1781)12月に上演されたが、思わぬヒットとなり翌年2月まで今で云うロングランとなり、以後各座で競演となった。特に兄の重次郎が返り討ちとなる場面は劇中の圧巻で満場の子女の紅涙をしぼったという。

 今では仇討ちが行われたという天下茶屋には何の遺跡もないが、堂島大橋北東にある西善寺(大阪市福島区福島3-4-4)には、重次郎の墓が芝居の中の「林伊織」の名前で残されている。同寺は太平洋戦争の戦災で昭和20年(1945)3月に全焼、約30年後の昭和53年(1978)11月に現在の本堂が復興再建した。今日、史跡を訪ねる人が多い。